インバウンドの回復とともに、日本の観光産業は再び「成長産業」として語られるようになった。2025年のインバウンドの旅行消費額が約9.5兆円になり、政府目標の15兆円も現実的な目標値と認識されてきたようである。 【図表】観光・宿泊産業の賃金は低い 円安、国際線の回復、アジアを中心とした訪日需要の拡大を背景に、宿泊・飲食を中心とする観光関連需要は中長期的にも伸びる可能性が高い。インバウンドで50兆円を目指せると指摘する一部の識者もおり、個人的にはこの後一旦停滞期を経てインバウンドは20兆円を超える可能性はあり、国内旅行消費と合わせて国内の旅行市場が40兆円超の産業になる可能性は十分にあると思っている。 だが同時に、現場では深刻な人手不足が顕在化しつつあり、成長の大きな拘束要因になってきた。フロント、清掃、調理、配膳といった基幹業務で人が集まらず、需要があっても稼働を制限せざるを得ないケースも散見される。 この「人手不足」を単なる労働力不足として捉えるのは危険である。問題の核心は、「この賃金水準、この働き方では人が来ない」という魅力不足である。 日本の観光産業、とりわけ宿泊・飲食業は、30年以上にわたり「低賃金・長時間労働」という構造を放置してきた。その結果、需要が回復しても供給が追いつかないという、成長産業として致命的なボトルネックを自ら作り出しているのである。
世界的な潮流でも、日本は特に深刻
まず押さえるべきは、観光産業の人手不足は日本固有の問題ではないという点だ。国際的な業界団体や政策機関の予測では、今後10年で観光需要は拡大する一方、必要な労働力の供給が追いつかず、世界全体で数千万人規模の不足が生じる可能性が指摘されている。特に宿泊・飲食といった対人サービス分野は、他産業との人材獲得競争が激化しやすい。 その中でも、日本は状況がより深刻化しやすい。背景にあるのは急速な人口減少と高齢化である。全産業で人手不足感が強まる中、賃金水準が相対的に低い観光産業は、若年層や専門人材から選ばれにくい。 実際、観光・宿泊業の賃金水準は全産業平均を大きく下回り、非正規比率も高い。これでは、需要増局面で真っ先に人手不足が顕在化するのは当然だ。
リスク対応をどう考えるか
観光産業の賃金引き上げを論じる際、必ずと言ってよいほど出てくる反論がある。「コロナや自然災害のような需要急減がある以上、固定費である賃金は簡単に上げられない」というものだ。 確かに、観光は外生ショックに弱い産業であり、パンデミック時には需要が一気に蒸発した。高い固定費を抱えた企業ほど打撃が大きかったのも事実である。この意味で、賃金引き上げに慎重になる経営者の感覚には一定の合理性がある。 しかし、この主張は一見もっともらしく聞こえる一方で、論点を取り違えている。問題は「需要急減が起こり得ること」ではなく、それを理由に平時の賃金水準を恒常的に抑え続けることが本当に合理的な経営判断なのかという点にある。
まず、コロナ禍のような需要ゼロに近い事態は、歴史的にも極めて例外的なショックである。100年に一度と言われる事象を前提に、平時の賃金設計を縛り続けることは、成長機会を自ら放棄することに等しい。実際、コロナを経験した後に賃上げが進んでいる産業は少なくない。 さらに重要なのは、賃金を上げないこと自体が、現在進行形のリスクになっているという点である。観光産業が直面している最大の脅威は「需要はあるのに、人が足りずに稼働できない」という状況だ。 低賃金のままでは人材が集まらず、離職率も高止まりする。その結果、教育投資は回収できず、サービス品質は上がらない。これは、回復局面で競争力を失うという意味で、極めて深刻な経営リスクである。 非常事態を理由に「賃金を上げられない」と言う議論は、突き詰めれば、「ショックに耐えられる賃金設計や経営設計ができていない」ことの裏返しにすぎない。問題は賃金水準そのものではなく、賃金をどう設計し、どう支えるかにある。 本来、危機への備えは、平時に付加価値と収益力を高めておくことで行うべきだ。稼働率頼みの薄利構造を改め、単価を引き上げ、需要のピークに依存しない平準化された収益構造を作る。DXによって人時生産性(labor productivity per hour)を高め、少ない人数でも高い付加価値を生める体質に変える。こうして平時の粗利率を高めておけば、危機時には一時的な雇用調整や労働時間短縮、公的支援の活用といった「ルール変更」で対応できる。 実際、米国の宿泊・飲食業界は、コロナ後に大幅な賃上げを実行したが、それは「次の危機が怖くなくなったから」ではない。危機を経験したからこそ、平時に稼げる体質へと経営を転換したのである。価格転嫁、生産性向上、業務の柔軟化を進めることで、高賃金と危機耐性を両立させている。 賃金を上げられない経営構造のままだから、危機に弱いのである。観光産業が成長産業であり続けるためには、「賃金は固定費だから危険」という発想を捨て、賃金を人材確保と競争力の源泉として再定義する必要がある。
第三に、産業構造の分散性である。日本の宿泊業は中小企業比率が非常に高く、家族経営の施設も多い。地域ごとに市場が分断されており、ブランド形成や人材教育の仕組みが作りにくい。 日本の宿泊施設の多くは客室数100室未満であり、世界の大手ホテルチェーンのような統一ブランドや共通教育、国際的な人材市場を形成することが難しい。この構造は地域の多様性を支える一方で、価格競争を生みやすく、産業全体の収益力を引き上げにくいという問題を抱えている。 ここで参考になるのが、世界の国際ホテルブランドの経営モデルである。例えば Marriott International や Hilton のような企業は、価格、ブランド、人材投資を切り離さずに設計している。需要に応じて客室価格を調整する収益管理によってトップライン(売上)を引き上げ、その収益力を背景に人材教育や賃金水準を維持・改善する。価格が上がり、人材投資が進み、サービス品質が向上し、さらに価格が上がるという循環が成立しているのである。 もちろん、このモデルをそのまま日本に適用する必要はない。しかし重要なのは、賃金を余剰の分配ではなく競争力を生む投資として設計するという発想である。稼働率を無理に上げることではなく、単価、滞在価値、需要の平準化という三つの軸で付加価値を高めることが重要である。 需要の強い局面では価格を取り切り、連泊や長時間滞在によって一人当たりの付加価値を高め、繁閑差を緩和することで安定した収益構造を作る。こうした設計ができれば、賃金倍増は決して非現実的な目標ではない。
DXは省人化ではなく「賃金原資を生む装置」
賃金引き上げを支えるもう一つの鍵がDXだ。ただし、DXを単なる省人化として捉えるのは誤りである。目的は「人手制約の中でも高い付加価値を生む」ことにある。需要予測と連動した価格運用、シフトや清掃の最適化、モバイルチェックインやセルフオーダーなどは、同じ人数でより高い単価を取るための仕組みだ。 DXによって生まれた余力や増収分を、どこに配分するか。日本の観光産業は、増益分を内部留保に回し、賃金は賞与で調整する傾向があるが、これが要因の一つであった。人手不足時代において、賞与では採用競争に勝てない。必要なのは、基本給を引き上げるという明確なコミットメントである。 結局のところ、賃金を上げられるかどうかは、経営の配分ルールとガバナンスの問題に行き着く。増収分の一定割合を基本給原資に充てると決める。現場の運営責任者に、価格と人件費の裁量を与える。その代わり、単価、人時生産性、平均年収、離職率といったKPIで統治する。こうした仕組みがなければ、どれほど需要が伸びても賃金は上がらない。
「人が足りない」のではなく、「賃金が足りない」
ここで強調したいのは、観光産業の人手不足は「人がいない」のではなく、「その条件では人が来ない」という問題だという点である。これは米国の事例を見るとよく分かる。 ホスピタリティ産業のトップ校であるセントラル・フロリダ大学の原忠之氏によれば、米国でもかつて宿泊・飲食は低賃金・重労働の代名詞だった。しかし、パンデミック後の急激な需要回復局面で労働力不足が顕在化した際、企業は賃金を大幅に引き上げた。短期間で時給が5〜6割、年収ベースでも3割以上上昇し、他産業からの労働移動が起き、「人がいないのではなく、賃金が低かっただけだ」と産業自身が気づくことになった。
日本の賃金が上がらない理由
宿泊・飲食は「賃金倍増」が可能な産業である。「倍増」とは、一度の賃上げで実現するという意味ではない。固定費産業としての利益レバレッジを、人材投資に継続的に振り向けることで、中期的に倍水準へ引き上げることが可能だ、という意味である。 とはいえ、多くの経営者が抱く疑問・懸念は、「賃金を上げるのは現実的ではない。どうすればよいのか」というものだろう。 ではなぜ、日本の観光産業では賃金が上がらないのか。そこには短期的な景気や一時的な需要では説明できない、構造的な三つの要因が存在する。 第一に、日本の宿泊業は長年、稼働率中心の経営をしてきたという問題がある。多くの経営指標が客室稼働率や宿泊者数といった数量に偏り、価格よりも集客が重視されてきた。しかし宿泊業の収益性を決める本来の指標は、客室販売可能一室あたり売上を示すRevPARである。 RevPARは客室単価と稼働率の積で決まる。欧米のホテルでは需要が強い局面では価格を引き上げ、稼働率が多少下がっても収益を最大化する戦略が一般的である。一方、日本では満室に近づけることが重視され、稼働率を上げるために価格を下げる傾向が強かった。その結果、売上は増えても利益率は上がらないという構造が続いてきた。 単価が低ければ、人件費の原資も生まれない。低価格モデルが低賃金モデルを生み出しているのである。 第二に、日本の観光産業では人件費が長く削減対象のコストとして扱われてきた。多くの企業では人件費率や労働分配率が「下げるべき指標」として管理されてきた。しかしホスピタリティ産業において、人材は単なるコストではない。顧客体験、サービス品質、ブランド評価はすべて人材によって生み出される。 その結果、基本給は上がらず、賞与で調整する構造が続き、非正規化が進んだ。この構造では離職率が高くなり、教育投資が回収できない。人材が蓄積されない産業になってしまうのである。
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