「次の中谷戦で勝って引退するのが一番美しいかもしれない。でも……」 世界スーパーバンタム級4団体統一王者の井上尚弥(33)はそう言って、言葉に力を込めた。5月2日に東京ドームで、挑戦者・中谷潤人との「世紀の一戦」に臨む。日本で100年以上の歴史を持つボクシング。井上は伝統の継承者であり、変革者でもある。自身の引き際や美学とともに、ボクシングの何を変え、どこへ向かおうとしているのかを聞いた。(取材・文:森合正範/撮影:矢内耕平/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
無敗同士の対決、中谷潤人戦は「残酷」
井上尚弥には夢がない。正確にいえば、あえて夢を持たないようにしている。 「夢なんて、自分がどこまでいけるかわからない。プロデビューしたとき、ここまで来るとは1ミリも想定していなかった。例えば、バンタム級のチャンピオンになりたい、という気持ちでやっていたら、そこに到達したときに燃え尽きちゃう。それが嫌なんです」 積み上げた戦績は32戦全勝27KO。世界戦27連勝中で史上最多記録を更新している。 「だから、一つ一つ山を越えていくという気持ちのほうが好きなんです」 遠くを見ずに、目の前の山を越えていったら、ライトフライ、スーパーフライ、バンタム、スーパーバンタムの4階級で世界の頂点に立ち、現在スーパーバンタム級で4団体のベルトを手にしている。山を踏破しても達成感がないから、また別の山にチャレンジする。 今回、目の前にそびえ立つのが、世界3階級を制し、井上と同じ32戦無敗(24KO)の中谷潤人になる。 「今が一番楽しいです。自分を奮い立たせるというか、特別な試合だと思っています」 井上は、これまでの対戦相手で中谷が最も高く険しい山だと認識している。 全階級を通じた最強ランキング「パウンド・フォー・パウンド」では井上が2位で、中谷が7位。かつて例のない、世界トップ10同士が闘う究極の日本人対決であり、海外も注目するビッグマッチ。中谷が世界的に評価されているからこそ、「特別な試合」だという。 「そこが今回の一番の魅力だし、自分自身すごくワクワクしています。準備期間が物語るんですよ。いつから危機感を持って本腰を入れるか。試合まで2カ月切ってから『やるぞ』というのがこれまでは一番長かった。それが今回は3カ月前からやっていますから」 無敗同士の対決。勝つのは井上か、中谷か。言い方を換えると、どちらかが負けることになる。 「残酷ですよね……。皆さんは試合の日だけ輝く瞬間を見ますけど、お互いが勝つためにその日まで全力で努力を積み重ねて、あの一日に懸ける。それもボクシングの魅力です」 高い山だからこそ危機感が芽生え、厳しい練習を課し、自分自身を追い込む。この日も井上は大橋ジムでの練習を終え、一日やり切った後に取材に応じた。
伝統を継承しながら変えてきたもの
井上はボクシングを「スポーツ」「競技」として捉えている。 「リング上では『やるか、やられるか』の気持ちがないと勝ちきれない。でも、格闘技ではなくてスポーツなので、叩き潰すとか、起き上がれなくなるまで殴り続けるという気持ちはないですね」 井上がボクシングは「スポーツ」だという思いを強く抱いたシーンがある。 プロデビュー前の2010年11月、マニー・パッキャオがアントニオ・マルガリートと対戦した。パンチを浴びせ、一方的な展開となった11回。パッキャオはレフェリーのほうを向いた。 「まだやらせるのか。試合を止めないのか!」 パッキャオが試合のストップを訴えていた。 「あれはね、もう勝負がついているじゃないか、これ以上殴らせるのかっていうね。スポーツだなと思いました。自分はアマチュアでやっていたし、オリンピックも目指していたので、そういう気持ちが強いです」 野蛮、ケンカからクリーンな闘い、競技へ。井上もまた、リング内外での振る舞いで、ボクシングのイメージを変えてきた。 「自分が求めているのは、子どもが『やりたい』と言ったときに、親がやらせられるスポーツ。そこがまず一番。今はドコモや大企業がスポンサーに付いてくれる。ボクシングのイメージが変わってきた証拠なのかなと思います」 ドコモやAmazonといった一流企業がスポンサーとなり、視聴形態はテレビから配信へと変わった。豊富な資金力を背景に、これまで国内では不可能とされた強豪選手とのマッチメイクが実現し、井上は高額のファイトマネーを手にしている。 スポーツビジネス専門の米メディア、スポーティコの長者番付によると、2025年、井上は6200万ドル(約98億6000万円)稼いだという。 「ファイトマネーはすごく大事ですよね。ボクシングをやりたい子どもたちに、夢を与えられることの一つ。すごく努力をしたら、ここまでいけると見せられるんで」 ファイトマネーは選手の価値であり、次世代を担う子どもたちの夢の指標にもなり得る。 「東京ドームでやります、と言って、ファイトマネーが1億円なら夢がないじゃないですか。まだまだいきたいです。1試合50億円を目指したいし、日本人の軽量級で年間200億円稼いだぞ、って言いたいですよね」
世間に届くまでの苦悩の日々
井上はプロデビュー時から「強い選手と闘いたい」と言い続けてきた。連勝や防衛回数といった記録に興味はない。たとえ敗戦と隣り合わせであっても、絶えず最強の相手を求めてきた。 「そこがなくなったら辞めます。今、この位置まで来てもその気持ちが途切れていない。負けを恐れていたら挑戦はできないし、守りのマッチメイクになってしまいますよね」 守りから攻めのマッチメイクへ。それはかつて井上少年が憧れ、日本のボクシング界を変えたものの一つでもある。 井上は中高生時代、世界戦となれば胸を躍らせ、テレビの前に座った。まだネットやYouTubeが普及していない時代。対戦相手の情報も入ってこない。試合開始のゴングが鳴った。 「僕も子どもなんで、テレビの前でどんな闘いになるか期待しているわけですよ。そうしたら、なんだよ、やる気あんのかよ、みたいな挑戦者だったり、それでチャンピオンが勝ち誇っていたり。なんかしっくりこないんです。やっぱり強い者同士が闘う。それに憧れがあったんです」 テレビの前で落胆した中高生時代。そんな思いを自身の試合ではさせたくない。だから、最強の相手を欲し、拳一つで観客を魅了することを徹底してきた。 「そこは貫いてきましたよ。でも長かったです」 「長かった」。その言葉は井上尚弥が世間に届くまでの時間と苦悩を表していた。
今から10年ほど前、世界2階級制覇となるスーパーフライ級王者になっても、有明コロシアムや横浜文化体育館、地元の座間でも会場が埋まらなかった。 「やっぱり自分の実力と知名度とのバランスが……。力のある選手と対戦したくても、『じゃあ井上とやるにはいくらくれるんだ』というときに、そこをクリアできなかった」 井上の実力は海外まで知れ渡っていたが、それでもまだ知名度が足りず、スーパースターとは言えなかった。リスクを冒す試合となれば、相手から多額のファイトマネーを要求され、結果、試合を受けてもらえない。望むようなマッチメイクができず、デビューから5年経っても、観客は1万人に満たなかった。 「一般の人に認知されるまで結構かかりましたね。ちょっとずつお客さんが増えてきたので、このまま頑張っていくしかないな、と」 どんなときでも、己の拳だけを信じてきた。 バンタム級王者となり、2018年10月のフアンカルロス・パヤノ戦で初めて1万人規模の横浜アリーナが超満員になった。翌2019年11月のノニト・ドネア戦では2万人が駆けつけ、さいたまスーパーアリーナが観客で埋め尽くされた。 「なんか、やっと来れたな。そういう気持ちがありました」 人間ドラマやパフォーマンスで興味を呼んだのではない。純粋にどちらが強いのか。井上の試合を見に来る観客。リング上の闘いで魅了する井上。井上尚弥というボクサーの人気だった。 「一番はそこなんですよ。どのボクサーもそう(試合で惹きつけたいと)思っているはずなんです。でもすごく難しい。自分も苦労しました。勝ち続けて証明するしかないな、と」 井上に対する世間の見方が変わるまでデビューから7年、19試合を要した。「長かった」。その言葉には実感がこもっていた。
目指すは強いまま、無敗で現役を終える
スーパーバンタム級での試合はカウントダウンを迎え、近い将来フェザー級に上げる予定だ。 「体重も増えてきている。フェザー級に挑戦できるのかなと。次が最後の階級です。スーパーフェザーは無理。もう最後にさせてくださいよ(笑)」 デビューから14年、33歳。井上にも最終章が近づいてきた。自身の引き際について、どう考えているのか。 「一番はですよ、次、勝って引退。これは区切りがいいじゃないですか。美しく終われます。でもやっぱり挑戦したい気持ちがまだ強い。その後も描いているものがありますから」 まだ燃え尽きていない。強い相手と闘いたい。自分がどこまでいけるのか。その向上心を持ち続けている。 「引き際はそれがなくなったときです。それがなくなったら、きついトレーニングや自分を追い込むこともできない。もし、準備不足や闘争心がない試合で負けたら、ファンをがっかりさせてしまうし、今までやってきたボクシングに対して、失礼になるので」 日々、練習で追い込む。強い対戦相手を欲する。一つでも欠けたなら、井上尚弥ではなくなってしまう。 「33歳から35、36歳になってきたら、確実に落ちてくる。反応やスピードをキャリアでカバーしなきゃいけないボクシングになっちゃう。そうするとどうなのかな、というのはあるし……」 ボロボロになっても闘い続け、散りゆくボクサーもいる。だが、井上は自らのパフォーマンスを発揮できなくなったら、現役に固執するつもりはない。強いままで終わる。強豪と闘い抜き、全勝で終わる。 「目指すはそこです。無敗で終わる。今、憧れている子どもたち、自分のファンにそんな(ボロボロになる)姿は見せられないので」 最後に、ボクサー井上尚弥の美学を問うた。 「美学……。これが、っていうものがないのがいいところなのかな。こだわりがない。美学はないです。よりストレスなく、こだわらないことが、チャンピオンとして長く居続けられる秘訣だと思います」 その場その場で臨機応変に。柔軟に最善の策を考える。 「こうだ、って決めて生きているのって、息苦しいじゃないですか。美学はこれだ、信念はこうだ、とあると息苦しい。もうフラフラとその場の感覚で生きています」 夢はない。 こだわりはない。 それがボクサー井上尚弥の生きる術。 今後どこまでいくのか。山々を登頂した後、何が見えるのだろうか。 それは井上にもわからない。 井上尚弥(いのうえ・なおや) 1993年4月10日生まれ。神奈川県座間市出身。世界4階級制覇王者。バンタム級、スーパーバンタム級の2階級で4団体統一を達成。日本ボクシング史上最高傑作と称され、「モンスター(怪物)」の異名で知られる。5月2日に世界3階級制覇王者の中谷潤人と東京ドームで対戦する。試合は映像配信サービス「Lemino」で独占ライブ配信。 「#つなぐ伝統」はYahoo!ニュースがユーザーと考えたい社会課題「ホットイシュー」の一つです。日本には次世代に残したい豊かな伝統や文化がたくさんあります。伝統を受け継ぐ人々の姿や、未来につなぐための取り組みを伝え、文化を守るヒントを考えます。
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